川上村木匠塾で出会った強烈な個性

 

『加子母木匠塾―30年続く木と建築の学びの場―』(建築資料研究社)が刊行された。

https://www.amazon.co.jp/加子母木匠塾-「加子母木匠塾」編集委員会/dp/4868340158

私は編集作業にはほとんど関わっていないけど、京都大学の柳沢究先生から数年前に「滋賀県立大学の書き手が見つかっていないのだけど、OGの井上悠紀さんは文章も書けるし、もしよければ紹介してもらえないか。」と依頼され、それで井上さんを柳沢さんに繋いだことがあった。私がこの本で関わったのはその一件だけだった。加子母木匠匠塾と滋賀県立大学の関わりが生まれたのは、2005年に布野修司先生が滋賀県立大学に着任されてからだった。その時、私は修士の学生で、1年間の西安への留学が控えていたし、帰国してからは博士後期課程に進学して研究に専念していたので、私が主体的になって加子母木匠塾に関わることはなかった。それでも加子母での合宿が始まると、布野先生や研究室の後輩たちに付いていって、現場を見学して夜の飲み会を楽しんだ。現場で原寸のものをつくることは今の自分の活動そのものだし、元来の性分にも合っているのだが、加子母木匠塾には自ずと縁がなかった。

一方で、川上村木匠塾という加子母木匠塾の兄弟分にあたる活動に、私は滋賀県立大学に入学した直後、2000年に滋賀県立大学の代表として参加した。連休明けぐらいのタイミングで木匠塾の説明会が談話室であった。林昭男先生や山根周先生、杉元葉子先生がおられた。先生方から色々と説明を受けて、私は「代表はどんな学生がなるんですか?」と聞いた。林先生から「君みたいな積極的な人が代表になったらいいよ。」と言われ、「わかりました。やります。」と答えた。入学して1ヶ月が過ぎたくらいだったけど、そのおかげで突然と慌ただしい学生生活を送ることになった。平日に大阪や奈良の吉野で催された幹事会に授業を休んで向かった記憶がある。1回生の前期は試運転のような期間のはずが、そのおかげでアルバイトも出来ず、交通費も随分とかかり金銭面でも苦労した。それでも幹事会は他大学のリーダーと仲良くなれたり、制作物をプレゼンしたりする機会に恵まれて初学の私にとって刺激的な場所だった。全体の統括リーダーは京都府立大学2回生の吉村耕一郎くん(以後、こうちゃん)だった。そのいでたちは、ロングヘアをオールバックに束ねて、ぴたりとした白Tシャツにスリムパンツ、革靴、全く動かないロレックスの腕時計を身に付けていた。その胡散臭い風貌、そして語り口もやけに堂々としてハッタリじみたところがあった。私は、よく彼にそれっぽい質問をして、彼なりの独特な見解を言ってもらう、というやり取りを面白がっていた。なんで木匠塾の統括リーダーになったのか聞いたら「とにかく王様になってみたかった。」と豪語していた。幹事会用に一冊の大学ノートを使っていて、木匠塾が終わった瞬間にそのノートを私に投げ渡して「そのノート、もう用がないからやるわ。」と言って颯爽と去っていった。他大学のリーダーも個性的だったけどこうちゃんは群を抜いた存在感だった。

それからしばらくして、私が大学院生の頃に、南彦根駅前に遊楽太郎という創作和食の居酒屋の店舗の設計施工に勤しんでいた。その渦中で何故かこうちゃんから電話があった。当時、彼はヤマギワの照明設計部で働いていた。設計施工の話をすると「おもろいことやっとるやんけ。お金いらんから照明設計やらせてくれや。」と言われ、思いがけず彼と一緒に仕事をすることになった。現場での打ち合わせで久しぶりに会うことになった。彼のキメキメないでたちは相変わらずだった。数時間遅れながら颯爽と現れて「遅れてすまん。間違えて湖西線に乗ってしまったわ。」わざわざ大阪から湖西方面を経由して彦根まで来た。やっぱりただではすまないその存在感に久しぶりにワクワクした。お店の改修はなんとかオープンにたどり着いて、関係者を招いてレセプションパーティーを催した。その際も大阪からわざわざ来てくれて「カウンターのダウンライトの照明の角度、グッと狭めてよかったわ。」と話していた。私たちでは判断できない繊細な施し、彼の感性が私たちのプロジェクトに組み込まれたことが嬉しかった。

私は川上村木匠塾には2001年以降、関わることはなかった。幹事会の慌ただしいことの反動もあって、自分の時間がちゃんと欲しくなったし、翌年以降の夏休みはバックパッカーとして中国に向かうようになった。おそらくこうちゃんも木匠塾には来ないだろうと思ったことも大きかった。2008年に「川上村木匠塾」の10周年記念パーティーが大阪であった。私もかつての大学代表だったということで久しぶりに当時の仲間に会えるだろうと思い参加した。みんな立派な社会人になっていて、私はまだ博士課程の学生だったので少し取り残されたような気分になったけど、当時の様子を懐かしんでその場を楽しんだ。やはりこうちゃんはその場所にいなかった。やっぱりあのノートを投げ捨てた瞬間に彼は木匠塾とは区切りをつけたのだ。その潔さもこうちゃんだなと思った。

個展「祈りのかたち」開催にあたって

数年前から個人の制作をするようになった。きっかけは建築家の石山修武さんから「窓計画展」という建築家・アーティスト・職人たちを一堂に介する展覧会に誘われたことだった。思いがけず巡ってきた展覧会に出展した作品は、近所の地蔵堂の解体した古材で作った鶏小屋(作品名「畑の鶏舎」)だった。その後、数回に渡って催された「窓計画展」でも、この地蔵堂の古材や2022年に閉店した彦根の名店・喫茶スイスの解体した古材を使って制作した。何かしらの表現を求められる中で、縁ある古材を介してものをつくることが自分にとっては自然な流れに思ったからである。

20歳の頃からアジアの辺境と呼ばれる場所を巡った。建物や集落の雰囲気を捉えるようなお気に入りのスポットを見つけて、しばらくその場所に座り込んで夢中になってスケッチをした。日々の慌ただしさや写真を撮ることに満足してめっきりしなくなっていたけれども、制作を始めてから再びスケッチをしたい欲求が芽生えてきた。アジアの辺境とはいかないけど、身近な古い寺社や好きな場所、私の故郷島根にある古事記ゆかりの神社を対象にした。その場でスケッチをし、時間がなければ写真に収めて帰ってから続きを描く。スケッチを再開して思うのは、20歳の頃と捉えるところは大して変わらない。けれども、もし心境の変化があるとすれば、建物細部の装飾的なものに目が向くようになった。そして細部を描くようになって色をつけ始めると、今度は色彩豊かなものに目が移ってきた。動物や植物の装飾も描きがいがある。スケッチをしてみると、色彩装飾は凹凸のあるところに施されていて、魔除けや祈りの意味が込められたことがなんとなくわかる。
「祈りのかたち」と題したのは、ここ数年縁ある古材を扱って制作してきたことに潜むもの、スケッチする中で色彩装飾に込められた願いへの気づき、そしてこれから私の制作するものに込められる「祈り」に期待したいからである。
2026年3月
川井操